我々は既にしばしば知識と行為との関係について述べてきた。知識と行為とは単に外面的に結び付くのでなく、内面的に結び付いている。認識する主観そのものが行為的である。この見方は我々を知識の倫理の問題に連れてゆくであろう。
知識の倫理の問題は認識の根柢には意志があるという主張から導かれることができるであろう。この主張は認識は判断であるという説につながっている。それに依ると、本来の意味において知識であるのは表象でなく、判断である。判断のみが本来の意味において真もしくは偽といわれるのである。判断は表象でなく表象の結合である。しかし判断は表象の結合であるというのみでなく、判断には肯定と否定或いは承認と否認があり、このものが判断の特徴をなしている。ブレンターノに依ると、判断は表象の結合と同じでなく、表象にとっては認識とか誤謬とかは内的に無関係であって、判断に固有な承認もしくは否認に関して認識もしくは誤謬は存在するのである。尤(もっと)もアリストテレスが考えた如く、真偽は本来は判断についてのみ語られるが、類比的には表象についても語られるとすれば、表象と判断との区別は、表象がそれ自身としてつねに単純に真であるに反して、判断は誤謬に陥り得るというところに認められるであろう。従って虚偽ないし誤謬の問題は知識の根本問題であり、いかにして誤謬は存在するかの問題が認識論にとって試金石であるとさえいうことができる。デカルトに依ると、誤謬は二つの原因の協同から、即ち知性と同時に意志が働くことから生ずる。